ソーシャルメディア時代の批判・批評と誹謗中傷・侮辱

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批判されても中傷されても多かれ少なかれ「痛い」と感じるものです。

批判や中傷を「スルーすべき」という人は多いですが、それはつまり「我慢すべき」ということで、ストレスであるという事実に変わりはありません。

本当に何も感じないのであれば、「スルーしよう」という価値判断さえ生まれないはずです。

何はさておき、私は、批判・批評は大いに尊重され、誹謗中傷・侮辱は最大限に蔑まれるべきと考えます。

その二つを隔てるものは何か。

その行為が被行為者との目的を共にした協働作業の範囲内といえるかどうかにかかっていると思います。

つまり、前向きに意見を出し合って、より良い合意や意思決定に至ろうというのが批判です。

その意味で、まさに民主主義の土台となる考え方といえるでしょう。

他方、ただ相手を攻撃し傷つける目的でするのが中傷です。

単に自分がスッキリしたいというガス抜きの場合もあれば、相手の社会的評価を下げる意図の場合もあるでしょう。

しかし、その言説が批判と中傷のどちらにあたるのかを厳密に決定することはほぼ不可能です。

多くの場合、両方の要素を合わせ持っています。

相手の評判を落とすことを意図した紳士的に見える批判や、本人としては全く悪意のない発言が受け手や第三者からは中傷として受け取られるという事態もあるでしょう。

特に、顔の見えない多種多様な人々が集まるインターネットでは誤解とその連鎖がつきものです。

中傷ととらえられる恐れのある言説を広く公開する場合、反撃行為が世間的に相当と認められやすくなる以上、報復を受けるかもしれないという覚悟が必要です。

匿名であっても、然るべき手続きを経れば個人が特定されてしまいます。

ソーシャルメディア全盛の時代にあって、一個人の言葉は、時として、幸か不幸か容易に拡散・増幅されてしまいます。

一昔前まではマスコミや政治家・作家・ジャーナリストしか持ち得なかったような影響力を、無名の個人のなにげないツイートが持つ場合があります。

ともすれば、自分の言葉ひとつで誰かの人生が良くも悪くも一変し、翻って自分の人生にも大きな影響をもたらすかもしれません。

「言葉は力であり刀」

この言葉がますます現実味を帯びてきました。

庭の畑で鍬を振っていたら、いつの間にか衆人環視の決闘場で日本刀を握らされていたということが、現代では起こり得ます。

名も無き農民から顕名の武士に引き立てられてしまうのです。自分の意思とは関係なく否応無しに。

江戸時代の武士どうしの間では、自分の刀のさやが相手の刀のさやに当たったというだけで、「無礼である」として切り捨てられることもあったと聞きます。

もちろん、現代ではとうてい許されない過剰な報復の仕方ですが、お互いに人を殺傷する武器を携帯しているという緊張感がこのような規範を強いたともいえるでしょう。

したがって、現代においても、誰かの名誉を傷つけうる言葉をネットで公開するのであれば、いつか復讐されるかもしれないという覚悟が必要です。

その覚悟がないのであれば、公の場には現れずに身近な人だけに愚痴をこぼすのが御身のためです。

相手を傷つけるのではなく、その刀で同じ夢を切り拓くために切磋琢磨したいというのであれば、誤解されることのないように最低限の礼節を守るべきでしょう。

夢を共有できないのなら無視するのが上策です。

自分の夢を叶えるための障害となり、どうしても切除すべき対象であるならば、覚悟を持って斬りかかるということになるでしょう。

殺伐とした時代がやってきたと思われるかもしれません。

同時に下克上の戦国時代が再び到来したともいえます。

テクノロジーによる時代の流れは、ますます見知らぬ個人同士を即時に結びつけ、特定組織の後ろ盾なくして公的な発言力を一時的にでも獲得することが可能になってきています。

貴方が手にしている「刀」は、本来有する物理的限界を超えて、稀代の名刀にも妖刀にも諸刃の剣にもなりえます。

どう用いるかは貴方次第。

そのことを努々お忘れなきよう。

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